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2010年6月16日水曜日

キンデルダイク・エルスハウトの風車(オランダ)


国土の約4分の1が海抜0m以下(つまり、海面より下にある土地)というオランダにおいて、排水用風車は水害を防ぎ、低湿地を農牧地や居住地に変える役割を担っていた。さらにその動力は、製粉、脱穀、製材などにも利用され、人々の生活に不可欠な存在だった。しかし、蒸気や電気、石油と代替エネルギーの進歩発展とともにその姿を消し、最盛期に1万基あった風車も、近年はオランダ全土で約950基残るのみという。
オランダ南部の水郷地帯キンデルダイクには、1740年代に建造された風車がノルド川に沿って19基建っている。そのうち17基には風車守の家族が住み、風車の手入れを続け稼働可能な状態を維持しつつ、文化記念物として、その保存に努めている。
※運河沿いに風車が建つ昔ながらの風景を、川下りの遊覧船で楽しむ事が出来ます。2010年、W杯サッカーの日本の対戦国【オランダ】の、のどかな風景でした(_ _)

2010年5月31日月曜日

ミラノのドメニコ会修道院と「最後の晩餐」


「このなかに私を裏切る者がいる」
と穏やかに指摘するキリストと、その言葉に激しく動揺する弟子たち。
この劇的な瞬間の緊迫感を、遠近法を駆使した構図がさらに高める。
この西洋美術史上の傑作『最後の晩餐』は、ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァの依頼で、レオナルド・ダ・ヴィンチがサンタ・マリア・デレ・グラツィエ修道院の食堂に描いた壁画で1498年に完成した。
『最後の晩餐』は、戦争、その他の影響による痛みで危機的状況であったが、近年の修復により当初の鮮やかさを取り戻した。
サンタ・マリア・デレ・グラツィエ修道院の聖堂は、15世紀末にゴシック様式でほぼ完成したが、ルドヴィコの命で建築家ブラマンテが改築に着手し、ルネサンス様式のクーボラと後陣が増築された。

2010年5月24日月曜日

ウルル、カタ・ジュター国立公園(オーストラリア)

ウルル、カタ・ジュターともに、オーストラリアの先住民アボリジニの重要な聖地である。アボリジニの創世神話では、【夢の時代】に【偉大な祖先】が、陸地を歩きまわって世界を創造したと説かれている。偉大な祖先が通った道はすべてウルル(【日陰の場所】の意味)で交わっており、仕事を終えた偉大な祖先は、ウルルやカタ・ジュター(【たくさんの頭】の意味)などで休息しているという。神聖な場所は岩絵(最古のものは約1万年前)で飾られ、洞窟では儀式が行われてきた。
ウルル派【エアーズ・ロック】の名で世界的に知られた巨大な1枚岩である。地上部分は周囲9,4km、比高348m、全長3400mに及ぶ。また、ウルルの西約32kmにあるカタ・ジュターは【オルガ山】と呼ばれ、大小36の岩が連なる地域である。最高地点は546mで、ウルルより大きな一枚岩が、浸食・風化によって複数の岩群になったという。
これらの聖地はヨーロッパからの入植者によって先住民から奪われ、1958年には国立公園に指定され、オーストラリア政府の所有となっていた。しかし、アボリジニのアナング族は土地の返還を要求し、法廷闘争の結果、1985年に所有権が彼らに戻され、本来の名【ウルル】でよばれるようになったのである。
約1300km²の国立公園には、オーストラリア内陸部の典型的な半砂漠地帯が広がり、貴重な生態系が見られる。有袋類のアカカンガルーやフクロモグラなどを含む40種の哺乳類、70種の爬虫類、480種の植物が生息している。
ウルルの岩肌は、太陽の光によって七色に変化すると言われる。オーストラリアに旅行に行った際は、ウルルの7色変化、観察してみて下さい@0@

2010年5月17日月曜日

黄龍(中国)

黄龍は、石灰岩の層が浸食されてできた大小の池(約3400個)が、傾斜に沿って段々畑のように連なる渓谷で、国の風景区に指定されている名勝。崑崙(コンロン)山脈の東端部を構成する岷山(ビンザン)山脈の主峰【雪宝頂(セッポウチョウ)】(5588m)の麓に広がり、標高3000m以上の高地に位置している。
黄龍は『黄龍溝』『牟尼溝(ムニコウ)』『雪宝頂』『丹雲峡』『紅星岩』『四溝』の6つの風景区からなり、総面積は1340km2に及ぶ。このうち黄龍溝と牟尼溝が世界遺産の中心をなす。黄龍溝は雪宝頂の東麓に位置し、地名の由来となっている明時代創建の黄龍寺がある。寺の背後にある五彩池は、連なる池が沈殿物や光の加減で様々な色に見える神秘的な場所。牟尼溝には中国一と言われる落差93,2mの滝、【紮嘎瀑布(サツカツバクフ)】がある。

2010年5月10日月曜日

古都トレド(スペイン)

標高3500mの花崗岩の大地に築かれた都市トレドは、三方がタホ川に囲まれた天然の要塞です。トレドの町を抱くように蛇行するタホ川は、外敵の侵入を防ぐため、川を渡る橋は二つしかなかった。
560年には西ゴート王国の首都となり、その後イスラム教徒の侵攻とレコンキスタ(国土回復運動)を経て、カトリック・スペインの王都として繁栄した。キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒が共存し、13世紀にアルフォンソ10世が設けた翻訳学校では、アラビヤ語やヘブライ語の古典が紹介されるなど、学芸の中心地としても知られた。1561年、都はマドリードに移り、ドレドは政治的、経済的重要性を失った。しかし文化と宗教については重きをなし、現在もそれは変わらないという。
町の歴史的建造物には大聖堂やアルカサル(王宮)などがある。約270年かけ1493年に完成した大聖堂は、ゴシック様式の大建築で内部は荘厳に飾られた。特に中央礼拝堂大祭壇背後の聖餐用祭壇【トラスパレンテ(ナルシソ・トメー作)】が目を引く。アルカサルは16世紀前半に要塞を宮殿へと改装した王宮である。
またトレドは、ギリシア人画家エル・グレコが活躍した地である。キリスト教世界を独特の形態と色彩で描いた彼の作品は、大聖堂やサンタ・クルス美術館で見る事ができる。

2010年5月3日月曜日

シェーンブル宮殿と庭園(オーストリア)

シェーンブル宮殿が建つ一帯は、16世紀後半からハプスブルク家の狩猟場であった。17世紀末、レオポルト1世は離宮の造営を建築家フィッシャー・フォン・エアラッハに命じた。バロック様式の宮殿は1700年に完成したが、予算不足で規模が縮小された。1740年、マリア・テレジアはこの離宮を居城と定め、建築家パカッシに大規模な増改築を命じた。離宮は18世紀半ばに大宮殿に生まれ変わり、私生活の場として居住性が重要された内部空間は優美なロココ様式で統一された。宮殿の南側に広がる庭園も大改造され、花壇や噴水、植え込みなどが幾何学的に配され、背後の森も組み入れた庭園が出来上がった。黄色い壁面は【マリア・テレジア・イエロー】と呼ばれ、建物の華麗な印象を引き立てている。

2010年4月19日月曜日

グレート・バリア・リーフ(オーストラリア)


グレート・バリア・リーフは、2500以上のサンゴ礁が約2000kmも続く世界最大のサンゴ礁の海で、約400種のサンゴが生息する。サンゴが長い年月をかけてつくりだしてきたサンゴ礁は、海底に複雑な地形をもたらした。光合成を行う藻類と共存するサンゴは、海の食物連鎖の基礎ともなる。その為、サンゴ礁には多彩な生物が住み、【海の熱帯雨林】とも呼ばれている。
グレート・バリア・リーフはまさに生物の宝庫で、約1500種の魚類、約4000種の軟体動物、約350種の棘皮(キョクヒ)動物、そしてジュゴン、ザトウクジラ、ミンククジラ、シャチ、ハンドウイルカなどの海生哺乳類や、アオウミガメ、アカウミガメなどのウミガメ類の姿を見る事ができる。

2010年4月12日月曜日

古都京都の文化財①【鹿苑寺(金閣寺)】(日本)

将軍職を長子‐義持に譲って出家した足利義満が、1397年(応永4)に西園寺家から譲り受け、翌年、北山殿として営んだ別荘。義満の没後、禅寺となり鹿苑寺と名付けられた。
舎利殿の金閣は金箔の貼られた3層の楼閣建築で、第1層が寝殿造り、第2層が書院造、第3層は禅宗風と、異なる建築様式が用いられ、公家文化、武家文化、仏教文化を調和させた特異な建築美を生み出した。鹿苑寺金閣の周囲には、各地の大名から寄進された名石を配した池泉回遊式の庭園が広がり、鏡湖池(きょうこち)に写る金閣寺の姿も素晴らしい。
残念ながら当時の金閣寺は、1950年(昭和25年)、放火によって焼失してしまい、現在あるのは、1955年(昭和30)に新たに再建されたものである。

2010年4月5日月曜日

アマルフィ海岸(イタリア)

ソレント半島南岸のソレントからサレルノまで約30kmに及ぶ海岸線がアマルフィ海岸で、独特の美しい景観でよく知られています。石灰質の岩盤が波の浸食を受けた結果、海岸線は複雑に入り組み、陸地は断崖となって海に落ち込む。こうした急斜面の狭い土地に中世の人々は集落を築き、アマルフィ、プライアーノ、ポジターノ、ラヴェッロ、ヴィエトリ・スル・マーレなどの小さな町が点在している。
白い家が折り重なるように建つアマルフィは、10~11世紀のビザンティン帝国統治時代、ピサやヴェネツィア、ジェノヴァと並ぶ海運都市として栄えたが、11世紀末、ノルマンの支配下に入って次第に衰えた。町にはノルマン様式の大聖堂と鐘楼(13世紀作)が残っている。大聖堂横の『天国への回廊』(13世紀作)も著名である。

2010年3月29日月曜日

万里の長城(中国)

万里の長城は、東は河北省北東部の渤海湾に臨む山海関から、西は甘粛省西部の嘉峪関まで、険しい山脈や大河、渓谷を超えて築かれた世界最長、最大規模の城壁である。中国では、古くから北方の異民族などに備えて、烽火台や防御壁が各地で造られた。春秋時代の【斉】が起源で戦国時代には、それぞれの国が個別に防御壁を築いている。
紀元前221年、中国を統一した【秦】の始皇帝は、北方の遊牧民【匈奴】への防衛を強化する為、戦国時代につくられた長城を修築連結し、西は現在の甘粛省東部に至る長城を完成させた。これが万里の長城の原型である。その後、【漢】の武帝がさらに西方へ拡張し、歴代王朝も修造、増築を繰り返した。
現存する長城は主に【明】代に築かれたもので、東の山海関から西の嘉峪関まで、主要部分だけで約3000km、二重三重になっている部分や分岐行路を含めた全長は6000kmにも及ぶ。城壁の高さは平均7,8m、頂部の幅は約4,5mで、要所要所には2,3層の望楼をもつ関城(防衛拠点)や、武器弾薬個を兼ねた敵台(見張り所)、襲来した外敵の規模を狼煙を上げて知らせる烽火台が置かれた。
関城では、長城の東端にあ『天下第一関』と呼ばれる山海関、急峻な山々の尾根に築かれた金山嶺、北京からモンゴル、西域へ通ずる交通の要所となった居庸関、長城の西端にある砂漠の中にある砦、嘉峪関などが有名である。

2010年3月24日水曜日

キリマンジャロ国立公園(タンザニア)

標高5895mを誇るアフリカ大陸最高峰の火山キリマンジャロ(スワヒリ語で「輝ける山」の意)を中心とする総面積753km3の国立公園である。標高によって環境が異なり、3000m付近までは熱帯雨林、3000m以上になると、ヒース(低木に覆われた荒れ地)や草原に、4000mになると火山礫や砂の荒れ地、4500mを超えると氷河が現れる。ドイツ人伝道師レープマンにより、1848年から欧州に知られるようになった。その後、1889年にドイツ人のマイヤーらが初登頂に成功。日本人の初登頂は1958年、早稲田大学の遠征隊が記録した。ヘミングウェイの小説『キリマンジャロの雪』の影響もあり知名度は高まった。
キリマンジャロの主峰であるキボ峰の山頂付近には、いくつかの氷河が残る。

2010年3月18日木曜日

フィレンツエ歴史地区(イタリア)

古代ローマに起源をもち、12世紀に自治都市を宣言したフィレンツエは、14世紀前半、毛織物業や金融業が栄えて人口12万人の大都市に成長した。そこに現れたが、父の興したメディチ銀行を巨大なものに育て上げたコジモ・イル・ヴェッキオで、彼は巨万の富をバックに市政を支配すると同時に学芸の振興にも力を尽くし、のちに【祖国の父】と呼ばれた。コジモの孫ロレンツォ豪華王は早くから英才教育を受け、わずか17歳でフィレンツエ市政を事実上支配した。彼は辣腕の政治家で、外交面でもイタリア諸国間の勢力均衡の維持に努めた。自ら詩人でもあったロレンツオは、人文主義者や芸術家と親しく交わり、学芸を熱心に保護した。メディチ家によるフィレンツエ支配は18世紀まで続き、その間フィレンツエは都市国家として大いに繁栄した。今も町には、堂々たる威容を誇るサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(写真)やメディチ家の収集した美術品を展示するウフィツイ美術館、メディチ家の教区聖堂だったサン・ロレンツオ聖堂など、歴史的建造物が多く残る。イタリア・ルネサンスを象徴するドームを頂いたサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂は、町の中心というだけでなく市民の精神的中心でもある。つい数年前、そんな歴史的建造物であり、市民の精神的中心でもある建物に落書きをした日本人がいましたが、恥ずべき行為である事は間違いありません。

2010年3月13日土曜日

石窟庵と仏国寺(韓国)

慶尚北道慶州市、吐含山の山頂近くにある石窟庵は、仏国寺とともに、統一新羅の宰相であった金大城によって造営された。751年、金大城は前世の父母のために石仏寺(石窟庵)を、現世の父母の為に仏国寺の建立を開始したと言われている。石窟庵は1909年に郵便配達員によって偶然発見された。インドや中国の石窟寺院のように自然の岩壁に穿(うが)たれたものではなく、花崗岩を積み上げた人口窟で、建築、造像とともに緻密な幾何学的計算に基づいて造られた。方形の前室と円形の主室からなり、主室の中央には約1,8mの台座上に像高3,45mの如来像が安座する。窟内には38の尊像が浮彫で施され、新羅の仏教芸術の頂点に立つ傑作と言われる。

2010年3月11日木曜日

モシ・オア・トゥンヤ(ザンビア、ジンバブエ)

モシ・オア・トゥンヤは、アンゴラ奥地を水源としてインド洋へ流れ込む、アフリカ第4の大河ザンベジ川の中流域にある。南米のイグアスの滝、北米のナイアガラの滝と並んで世界三大瀑布の一つに数えられ、ジンバブエとザンビアの国境にまたがる大瀑布である。
モシ・オア・トゥンヤとは、マコロロ族の言葉で「雷鳴の轟く水煙」を意味する。滝幅は最大で1700m以上、落差は110m~150m。その呼び名の通り、すさまじい轟音を鳴り響かせ、水煙を天空高く立ち昇らせる。雨期の終わりには、毎分最大30万m3もの水が流れ落ちるという。流水は常に岩盤を侵食し続け、滝は川上に後退し続けている。現在の滝は、当初の滝の約80kmも上流に位置している。
イギリス人探検家リヴィングストンがこの滝を発見したのは1855年、当時世界に君臨していた母国の女王にちなんで『ヴィクトリアの滝』と命名し、やがてこの秘境の大瀑布は西欧諸国に知られるようになった。

2010年3月5日金曜日

自由の女神像(アメリカ合衆国)

正式名称は【世界を照らす自由】。アメリカ合衆国の独立100年を祝い、フランスから贈られた世界で最も有名な銅像である。像の制作は1874年、パリで開始された。発案し、フランス国民に募金を呼びかけたのは法学者エドワール・ド・ラブレー、製作者は彫刻家フレデリック・オーギュスト・バルトルディ、構造設計は、橋梁建造家のギュスターブ・エッフェルである。10年の歳月をかけ、1884年に完成した女神像は214個に分解され、フランスからニューヨークへと運ばれた。台座はアメリカ市民の負担とされ、新聞王ジョセフ・ピュリッツァーが全米に献金を募った。呼びかけは成功して台座は完成し、1886年10月に除幕式が行われた。巨大な女神像は星形の土台の上に立ち、像高46m(台座高47m)、総重量約225t、左手には独立宣言を記した鉄板を持ち、右手には希望を意味する松明を掲げる。踏みつけている足枷は、奴隷政治と独裁政治を象徴し、宝冠の突起は、7つの大陸と7つの海に広がる自由を示す。

2010年2月28日日曜日

テ・ワヒポウナム(ニュージーランド)

テ・ワヒポウナムは、ニュージーランド南島を北東から南西に縦断する山脈のサザン・アルプス沿いに位置する4つの国立公園と多くの保護区からなる。急峻な山岳や氷河、フィヨルドの切り立った断崖といったダイナミックな景観が展開する地域である。ナンキョクブナが生い茂る原生林など、太古からつながる貴重な生態系が残っており、国鳥キーウィを始め、ダカヘ、フクロオウムなど多くの固有種が見られる。標高3,756mのマウント・クック【マオリ名アオラキ(写真中央)】を中心に高峰が連なるアオラキ/マウント・クック国立公園では、南半球最大規模のタスマン氷河や、ミューラー氷河など多くの氷河が見られる。

2010年2月23日火曜日

ペトラ遺跡(ヨルダン)

古代ナバタイ王国の都ペトラは、砂漠の交易路の要衝にあり、岩山に守られた要塞でもあった。商才に長けたナバタイ人は、土木技術や芸術にも優れ、巨大な岩壁の砂岩を刻んで壮麗な建造物をつくり、高度な水利技術を用いて砂漠の町に水を供給していた。紀元前1世紀頃から栄えていたが、後1世紀初頭にはローマ帝国に征服され、ローマ風の建造物も並んだ。その後、交易路が変わると、徐々に衰退し、4世紀頃には忘れ去られ、ついには砂に埋もれてしまった。
ちなみに、映画『インディー・ジョーンズ最後の聖戦』の舞台に使われたことでも有名。

2010年2月20日土曜日

モン・サン・ミシェル(フランス)

708年司教オベールの夢に大天使ミカエル(フランス語名ミシェル)が現れ、当時陸続きだった岩山に「礼拝堂を建立せよ」と告げたという。オベールがお告げに従うと、岩山は一夜にして海に沈み孤島になったという。以来、島は聖地となり、巡礼者が多数訪れるようになった。ノルマンディの海に浮かぶ、要塞のようなモン・サン・ミシェルはこうして誕生した。966年、ノルマンディー公リチャード1世がこの島にベネディクト会の修道院を創設した。修道院は増改築を繰り返し、現在の形になったのは13世紀のことである。14世紀の100年戦争では、城塞に使われ、修道院は閉鎖されたが、16世紀に復活。フランス革命後は監獄となったが、現在は再び、修道院に復している。

2010年2月16日火曜日

知床(日本)

知床として世界遺産に登録されたのは、北海道東端に位置する知床半島の陸域と、知床国立公園に隣接する海域(海岸線から3km)、総面積711k㎡(そのうち海域が224k㎡)である。知床はアイヌ語で『土地の先端』を意味し、最高峰の羅臼岳(1661m)を始め、硫黄山(1562m)など、標高1500m級の火山群が縦走し、針葉樹や、落葉広葉樹の原生林が広がる。また、オホーツク海の北辺で生まれる流氷が接岸する世界最南端の地であり、流氷が運んでくるオキアミなどの豊富なプランクトンによって、海陸で豊かな動物相を形成している。

2010年2月7日日曜日

オペラハウス(オーストラリア)

1973年に完成したシドニーのオペラハウスは、世界遺産のリストの中で年代的に最も新しいが、形状、構造ともに独創的な建築として高く評価されている。設計は、当時ほとんど無名であったデンマークの【ヨーン・ウッツォン】が手がけ、その独特な形状ゆえ、施行での困難がつきまとい、竣工には、14年の歳月を要した。シドニー港に突き出した岬の先端に位置し、風をはらんだ帆を思わせる外観は、シドニーのランドマークとなっている。ちなみに、中は、コンサートホール、オペラ劇場、ドラマシアター、レストランなどの複合施設となっています。

2010年2月6日土曜日

マチュ・ピチュ(ペルー)

マチュ・ピチュ(ケチュア語で、「年老いた峰」の意)は、標高2400mのアンデス山中、ウルバンバ渓谷の山間に広がるインカ帝国の都市遺跡である。16世紀に、インカの諸都市はスペイン人によって徹底的に破壊されたが、ここは険しい峰の上に築かれていたため、その難を逃れることができた。
1911年、アメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムが、欧米人として初めてマチュ・ピチュに到達。山裾からは見えないことから「空中都市」と呼ばれ、世界中に宣伝された。

2010年2月5日金曜日

カナディアン・ロッキー山岳公園(カナダ)

ロッキー山脈は、北はカナダのユーコン・テリトリー南西から、南はアメリカ合衆国南西部まで、全長4500kmに達する大山脈である。そのうちカナダ国内にある南北約1500kmが【カナディアン・ロッキー】と呼ばれ、最高峰は標高3954mのロブソン山である。荒々しい地層、白い雪を頂く峰々、緑濃い針葉樹林、青く穏やかな氷河湖などが、カナディアン・ロッキーの魅力である。

2010年2月4日木曜日

コパンのマヤ遺跡(ホンジュラス)

グアテマラのキリグア遺跡とともに、モタグア川流域を代表する都市国家であるホンジュラスのマヤ遺跡。コパン(地名)を5~8世紀頃の間、支配し繁栄したこの王朝は、9世紀前半に自ら築いた衛星都市【キリグア】に滅ぼされた。
これまでの発掘調査によって、祭祀用の大広場とアクロポリスを中心に、球戯場やピラミッドなど、マヤ文明の特徴を持つ建造物や多彩な石造彫刻などが、多数発見された。
アクロポリスの北側にある【碑文の階段】には、アメリカ大陸で最長の【マヤ文字】の碑文が刻まれ、そこには王朝の歴史が綴られている。

2010年2月3日水曜日

ギザの三大ピラミッド(エジプト)

紀元前2500年頃、第4王朝第2代クフ王の時代に、高さ135m、底の一辺が230m、重さ約2.5tの石を約230万個も積み上げ、当時最大のピラミッド【クフ王のピラミッド】(奥)が建設された。
内部には、大回廊やファラオ(王)の間、地下の間などと、呼ばれる空間があるが、実際には、どのような目的で造られたかは、正確にはわかっていない。
その後、【クフ王のピラミッド】の隣には、現在最も高い【カフラー王のピラミッド(142m)】(中央)と、王妃のピラミッドが併設された【メンカウラー王のピラミッド(67m)】(手前)が建ち並び、合わせて【ギザの三大ピラミッド】と呼ばれている。
ちなみに、画面には映し出されていませんが、守護神として有名な【スフィンクス】は、【カフラー王のピラミッド】の直線上にあります。

2010年2月2日火曜日

ピサの斜塔(イタリア)

イタリア、ピサの旧市街のはずれにあるドゥオモ広場には、イタリアのロマネスク及びゴシックの建築を代表する4つの建築物(大聖堂、鐘楼、洗礼堂、納骨堂)が緑の芝生の中に建ち並ぶ。その中でも、大聖堂の東側の鐘楼が有名な【ピサの斜塔】である。1175年から約170年かけて建てられたこの建物も、建築途中から軟弱な基盤のために、傾き始め、近年の工事で、ようやく傾きは止まった。ピサの斜塔にまつわる歴史話として、アイザック=ニュートンと、ガリレオ=ガリレイが、引力の実験をしたとか、しないとか、後世の作り話とか、事実とか、ホントのところは、何もわかっておりません。(_ _)

2010年1月31日日曜日

タージ・マハル(インド)


タージ・マハルは、ムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、亡き王妃ムムターズ・マハルのために建てた白大理石の霊廟で、世界で最も美しい霊廟と言われている。
王妃の別名でもあるタージ・マハルは【宮廷の冠】を意味し、莫大な経費と22年の歳月をかけて、1654年に完成した。
後日談として、皇帝シャー・ジャハーンは、晩年、息子アウラングゼーブによって、アーグラ城に幽閉され、亡くなるまで、その城の八角形の望楼から、ダージ・マハルを眺めていたという。
帝の死後、その棺はタージ・マハルに眠る王妃ムムターズ・マハルの棺の隣に並んで安置された。